スタイリッシュじゃない








 東京に住んでいたとき、楽だったことのひとつにゴミの分別を気にしなくてよかったことがある。気にしなくていいと言っても、何でもかんでもまとめて捨てられるというわけではなくて、ビンや缶やペットボトルなんかは分別して捨てていたんだけど、燃えるゴミとプラスチックを分ける必要がなかった。だから当時、部屋に置くゴミ箱はひとつでよかった。
実家に戻ってきた今、各部屋にふたつずつゴミ箱がある。そしてそのふたつのゴミ箱は形もデザインもちぐはぐで全然スタイリッシュじゃない。東京に住んでいたときに買ったちょっとおしゃれなグレーのゴミ箱は、実家に昔からあるただゴミがたくさん入るだけの黒いゴミ箱と並べられてその輝きを失ってしまった。もしかしたら東京都は都民の生活をスタイリッシュにするために分別のルールが緩いのかもしれないと思った。そんなはずはないんだけど。
でももしもすべてのことが「スタイリッシュか否か」で決まるのならば、この前見かけた不可思議な現象を説明できる。それは電車で席を譲りたいのに譲ることができずに眠ったふりをしていたサラリーマン。彼が席を譲りたいのに譲らないのは、それをスタイリッシュに出来ないからかもしれない。もし今立ち上がって声を掛ければ柄にもなく赤面してしまうかもしれない。また、譲ったあとどんな顔をしていいのか分からずに広告を見上げながらわざとけだるそうな表情を作ったりする。その姿は全然スタイリッシュじゃない。それに比べてどうだろう、彼の眠る姿。首を少し下に傾けてどこにも寄り掛からずに姿勢を正して目を閉じているその姿はなんてスタイリッシュなんだろう。席を譲る彼は眠ったふりをする彼に敵わない。
彼が席を譲れるようになるためにすべきことはひとつ。練習するのだ。赤面せずにそしてスタイリッシュに席を譲ることが出来るようになるために。夕食後、家の狭いリビングで椅子に座ったら、素早く立ち上がり軽く手を挙げて「良ければ座って下さい。」と声に出して言ってみる。その動作とセリフを何度も何度も繰り返し練習するのだ。新卒社員が入社してすぐの研修で挨拶の練習をするみたいに、アイドルグループが新曲の振り付けや歌を練習するみたいに。
どうして私たちは日常生活で起こる些細なことのために練習することを怠るのだろう。トイレの便座に座るときの動作や電車の扉へのもたれかかり方、PASMOのタッチのし方、握手や挨拶、そして席の譲り方だって練習したらいい。やったことのないこと、かっこよくできないこと、できるようになりたいこと、なんだって練習していい。恥ずかしくなんてない。やったこともないくせに、そんなことはその場になればできると思い込んで、いざその場になったら自分のことも他人のことも見なかったふりをしてやり過ごす。そういうぬるい心が一番スタイリッシュじゃない。

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