眠い




 朝の駅はある意味夜よりも暗い。密集した人の眠気や憂鬱が混ざり合って下を向きたくなる。行きかう人みんなが不機嫌でその塊が見えない力に背中を押されて下へ下へ流れていく。こういう話をすると子どもの頃はそんなことなかったのに、と言う人がいるけれど、私は子どものころから朝が憂鬱だった。
 寝つきが悪いせいで当然寝起きも悪い。記憶がないまま朝ご飯を口に詰め込まれ、引きずられるように保育園へ連れていかれた。確かな記憶ではないけれど、寝ている間に見ていた夢を覚えているような感覚で記憶している。
記憶の中の母の手は力強く、ドロドロのスライムと化した私の身体と思考を必死で正しい形に整えようとせわしなく動いていたように思う。当時の私は母のその手が嫌いだった。優しくて柔らかいお布団の世界から引きはがしにやってくる手。何もせずじっとしていたいのに体を動かされ、行きたくない場所へ連れていかれる。当然私は不機嫌さをさらけ出していた。眠さに負けてエネルギーが出ないので暴れたりはしないけれど、そちらの都合でこれ以上人を巻き込むのはいい加減にしてほしいんですけど的な精神で、母の思い通りに動かないことで必死に抵抗していた。仕事で忙しい母からしたら本当に厄介者だったと思う。申し訳ない。
だから小さいころから背中を丸めた同じように憂鬱そうな大人を見ても、なぜ?とは思わず共感していた。むしろ朝から声高らかに挨拶している保育園の先生の方がどこか遠い存在に感じた。何とははっきり言葉にできないけれど、そういう人と自分とは何かが決定的に違うのだと思っていたし、今も少なからずそれに似た感覚がある。
成長するにつれて母の手に引かれなくても布団から起き上がれるようになった。それは憂鬱な朝を克服したわけではなく、勉強や仕事やそれ以外のやらなきゃ自分が困ることに背中を押されるようになったから。重たい空気はもっと重くなった。
平日にはやらなきゃいけないことが溢れていて、休みになればやりたいことが溢れている。私たちはやっぱりずっと止まっている事は出来なくて眠たい憂鬱な朝を繰り返す。
だけど人はいつか必ず手に入れることが出来る。何にも引っ張られず、追いかけられもせず、ずっとずっとずっと眠り続けられる日々を。それがきっと本当の意味での眠いからの開放。でもそんな未来が怖くてたまらないのは、眠くてたまらない毎日が本当は好きで仕方がない証。そのことをいつかもっともっと深く自覚できたなら私は憂鬱な朝を超えて、小さなけれど力強い光を含んだ瞳で朝日の中を歩くのだろう。あの頃私の手を引いてくれた母のように。

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