見えていないもの



子どものころ、とにかく寝つきの悪い子どもだった。実家に帰って母や姉と昔の話をすると必ずその話が出るくらいに、なぜか夜眠ることが出来ない子どもだった。その上、目に見えない物をしっかり信じる性質も持ち合わせていたため、夜がとにかく嫌いだった。暗闇の中に一人で取り残されるのが怖くてたまらず、先に眠りにつこうとする母をゆすって無理やり引き戻し、歌をうたわせたり、『トントンして』と言ってはお腹のあたりをトントンと優しくたたかせていた。

先日実家に帰ったとき、久しぶりに母と姉と布団を並べて眠った。今でも母も姉も私を真ん中に挟んで眠らせてくれる。もう端っこで眠るのも怖くないから意味はなくなったのだけれど習慣だけが残っている。
最後にお風呂に入り髪を乾かした後、電気の消えた部屋にそっと入り、先に寝ていた母と姉の間に潜り込んで、天井を見つめながら眠りに落ちるのを待っていた。
静かな夜の暗闇の中で枕元から聞こえる雨の音に混じって、ふと、母と姉の寝息が聞こえてきた。穏やかなリズムがふたつ、透き通った暗闇にそっと響く。その響きを聴きながら私はなぜか幸せに包まれていた。
夜が怖くてたまらなかったあの頃、先に眠りにつく母と姉に置いて行かれたことが何度もあった。その度に暗闇にふたりの寝息は響いていたのだろう。今夜と同じように。穏やかな響きが、穏やかな時間が流れていた。きっと私が知らなかっただけだ、暗闇の優しさを。私が小さ過ぎたのだ、世界の大きさに気づけないほど。私は弱かったのだ、自分の心が生んだ恐怖よりもずっと。
二人の寝息を聴きながら見上げた天井は昔よりも高く感じられた。あの頃は見えていなかった。見えない怖いものばかりに目がいって、窓から射しこむ青白い光の美しさや、寝息の中のそばにいる証、他にあるたくさんのものが見えていなかった。

そういえば会社を辞める直前、とにかくすべてのことに追い込まれていた私も、毎日会社と布団の中だけしか見えていなかった。どこにいても苦しさがあって、嫌いな人ばかりがいて、嫌な事ばかりが追いかけてきて、見るのが怖くて目を閉じた。あの時も見えていなかったのかもしれない。知らない間に与えられていたたくさんのことも、本当は差し伸べられていた手も。自分の心が生んだ苦しみに埋もれて、目を奪われて。

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